投稿

1月, 2017の投稿を表示しています

「信じない」ことと「嘘だと信じる」ことの違い

狼少年という話がある。 羊飼いの少年は「狼が来たぞ」と嘘を叫ぶことで村人を何度もからかっていたが、ある日本当に狼が襲ってきた時にそれを信じて貰えず羊が全滅してしまったという話だ。 この寓話の最大の教訓は、狼少年の「嘘をつき続けると信じてもらえなくなる」ことではない。 村人の 「"信じない"ことを"嘘だと決めつける"ことと混同してはいけない」 という点だ。 嘘をつくのは低コストだ。 狼少年が「狼が来たぞ」と叫ぶのはさぞ簡単だったことだろう。 それに対して、嘘を検証するのは高コストである。 狼少年の警告を信じて羊を避難させたり、男衆を集めて牧場を警戒させたりするのは大変なことだ。 これがいわゆる嘘の非対称性というやつで、嘘つきはこれを利用して検証できない速度で嘘をつき続けることが強いと学習する。 そのうち、村人はいちいち狼少年の警告を真に受けるのはとても無理があるとして、 「狼少年の言うことを信じてはいけない」 と判断することになる。 これは真偽判定のコストを下げるためにどうしても必要な判断だ。ここまでは良い。 ここからが問題で、村人はこの判断をいつしか 「狼少年の言うことは嘘である(事実の逆である)」 と勘違いするようになってしまったのだ。 すなわち、「狼少年が「狼が来た」と言った時、狼は来ない」と考えてしまったのである。 結果、村の羊を全て失ってしまった。 嘘つきというのは、 嘘か本当か分からないことを言うから嘘つき なのだ。それを必ず嘘であると判断するのは、 逆に信用している のと同義である。 村人は、狼少年の言うことを完全なノイズとして無視し、新たに羊飼いを雇って狼を引き続き警備しなければならなかったのだ。 「信じない」ことと「嘘だと信じる」ことを混同している人はとても多いように感じる。 詳細は省くが、この前「この人の言っていることは証拠がないからまだ信じない方が良い」と発言したところ、「じゃあもし本当だったら謝れよな」と返されたことがある。 何故「本当だったら謝れ」となるのか? それは彼が私の発言を「この人の言っていることは証拠がないから嘘だ」と言ったのだと勘違いしたからだ。 もちろん証拠もなく嘘と決めつけるのは失礼に当たるが、私は「真偽不明と置くべ