「信じない」ことと「嘘だと信じる」ことの違い

狼少年という話がある。

羊飼いの少年は「狼が来たぞ」と嘘を叫ぶことで村人を何度もからかっていたが、ある日本当に狼が襲ってきた時にそれを信じて貰えず羊が全滅してしまったという話だ。

この寓話の最大の教訓は、狼少年の「嘘をつき続けると信じてもらえなくなる」ことではない。
村人の「"信じない"ことを"嘘だと決めつける"ことと混同してはいけない」という点だ。



嘘をつくのは低コストだ。
狼少年が「狼が来たぞ」と叫ぶのはさぞ簡単だったことだろう。

それに対して、嘘を検証するのは高コストである。
狼少年の警告を信じて羊を避難させたり、男衆を集めて牧場を警戒させたりするのは大変なことだ。

これがいわゆる嘘の非対称性というやつで、嘘つきはこれを利用して検証できない速度で嘘をつき続けることが強いと学習する。

そのうち、村人はいちいち狼少年の警告を真に受けるのはとても無理があるとして、「狼少年の言うことを信じてはいけない」と判断することになる。
これは真偽判定のコストを下げるためにどうしても必要な判断だ。ここまでは良い。

ここからが問題で、村人はこの判断をいつしか「狼少年の言うことは嘘である(事実の逆である)」と勘違いするようになってしまったのだ。
すなわち、「狼少年が「狼が来た」と言った時、狼は来ない」と考えてしまったのである。
結果、村の羊を全て失ってしまった。

嘘つきというのは、嘘か本当か分からないことを言うから嘘つきなのだ。それを必ず嘘であると判断するのは、逆に信用しているのと同義である。

村人は、狼少年の言うことを完全なノイズとして無視し、新たに羊飼いを雇って狼を引き続き警備しなければならなかったのだ。



「信じない」ことと「嘘だと信じる」ことを混同している人はとても多いように感じる。

詳細は省くが、この前「この人の言っていることは証拠がないからまだ信じない方が良い」と発言したところ、「じゃあもし本当だったら謝れよな」と返されたことがある。

何故「本当だったら謝れ」となるのか?
それは彼が私の発言を「この人の言っていることは証拠がないから嘘だ」と言ったのだと勘違いしたからだ。
もちろん証拠もなく嘘と決めつけるのは失礼に当たるが、私は「真偽不明と置くべき」と言ったに過ぎない。



例えば、NHKニュースの報道だったらとりあえずは「本当である」と信じていいだろう(誤報の可能性もあるが、もしそうなら後で訂正される)。

逆に、虚構新聞の報道だったら「嘘である」と信じることができる(稀に嘘から出た真となってしまうこともあるが、その場合は謝罪記事が出るのが通例になっている)。

こういう風に、証拠(信じるに値する材料)というのは必ずしも数字とか文書である必要はなくて、「真実のみを報道している実績」「嘘のみを報道している実績」「もし間違いがあったら訂正する実績」というものでも十分判断材料になる。

その点、「流れてきた一般人アカウントのツイート」というのは、どちらの実績も存在しない。一般人の無根拠のどんな発言でも無条件に信じるのは家族や友人ぐらいのものだろう。
そういったアカウントからのソースのない発言は、本当の可能性もあるし、嘘や間違いである可能性もある以上、信じるに値する詳細な状況、写真や文書などの証拠、別人からの証言など材料が揃うまではひとまず「真偽不明」と置かなければならないのだ。

そして、狼少年のような嘘つきには、「頻繁に嘘をつく」という実績こそ存在すれど、虚構新聞と違って「本当のことは絶対に言わない」という実績が存在しない。
つまり、先程言った通り、嘘つきの言うことは嘘か本当か分からない。だからこそ、何の判断材料にもならないノイズに過ぎないのだ。



証拠不足のニュースを見かけたとき、人はついそれを「本当のニュースである」か「嘘のニュースである」かのどちらかであると決めつけてしまいがちである。
しかし、とりあえずまずは「真偽不明の情報」と分類して、何かの判断材料にせず、証拠が出るまで保留しておこう。
それがデマに惑わされないためにも重要なリテラシーだ。

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