「酒がその人の本性を暴く」は真か?

もっともらしく語られる一文ではあるが、俺はこの意見には懐疑的である。



そもそも本性とは何か?検索したところによると、

三省堂 大辞林 第三版
ほん しょう -しやう [1] 【本性】
〔古くは「ほんじょう」とも〕
①  生まれつきの性質。本来の性質。 「 -を暴露する」 「 -を現す」
②  正気。本心。 「 -ヲウシナウ/日葡」

 本来の性質、あるいは本心であるという。

だが、他人の本心を誰が分かるというのだろうか。

我々は誰も他人の心の内を覗くことなど出来ない。

酒を飲ませたところで、「酔ったときのすがた」が現れるだけである。

それが本心の表面化である保証など、どこにもない。



というか、考えても見るといい。

酒の勢いでやってしまった、言ってしまったことを後悔したことのある人は少なくあるまい。

おかしいではないか。酒が本性を暴くのなら、酒の勢いでやったことはシラフでも本当はやりたかったことに違いないだろうに。



人は本能だけに生きるのではない。

理性と本能を合わせて私の自我は形成される。

その片方だけを外的要因で抑制した姿を決して本性などと呼べはしない。

その理屈が通るなら、麻薬でラリった姿も本性だし、鬱病で沈んだ姿も本性だし、ロボトミー手術で変化した人格も本性と言えてしまう。そんなことがあってたまるか。



確かに、酒癖が悪い人はいる。酒を飲んで振る舞いが変わる人もいる。

だが、それは「酒が本性を暴いた」のではない。単に、「酒を飲んだらそうなる」だけの話だ。

それを自覚して本人が酒を控えるのかそうでないのか、飲酒した状態で人前に出るのかどうかも含めて、その人の人格と言うべきではないのか。

簡単に「本性」などという単語を用いないでほしい。勝手にクオリアを観測したつもりにならないでほしい。



人は己の欲求と社会的要請のはざまで、ときに我慢を強いられながら生きている。

だが、何かをしたいという状況で我慢という選択が出来る、その理性こそ人格の一部のはずだ。

ヒトから理性を奪うな。



ここで俺の座右の銘の一つを述べて終わろう。

内心がどれだけレイシストでも、死ぬまでバレずに反差別活動を続ければ反差別主義者である。

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